① すわぶき地蔵

すわぶき地蔵は、子供の百日咳治療の神様として祀られ、医者に見放された人が、この地蔵に参ったら治ったと言う話もあります。治癒した人は、火吹き竹を供えます。この火吹き竹は、耳にあてて吹くと言います。耳・鼻・のどは通じているので百日咳も吹き飛ばせと言うことか。「すわぶき」とは、しわぶき・咳のことです。咳が止まらなくて辛く苦しい思いをした人を救う地蔵尊のことです。
埼玉県所沢市の「長久寺」には{壽和婦貴(すわぶき)尊}が祀られています。ここは、首を取った地蔵が本尊になっており、首から上がないと咳に苦しまないで済む、と言う庶民の切ない願いが込められていると思います。
② 日奈久阿蘇神社

日奈久阿蘇神社は、室町時代に田の川内城主の山崎伊豆守がイナゴの害で苦しむ農民のために城内に阿蘇大明神を祀って、イナゴ退散・五穀豊穣の祈願をしました。また、付近の堤防改修を行いました。その結果、平和な村に返ったそうです。その後、城内の阿蘇大明神を村内に奉祀したのが、日奈久阿蘇神社の始まりで、「大明神」とも呼ばれています。
また、乳の出ない人が布で三角袋を作り、それに米を詰めて願をかけると御利益があると言われています。
③ 高田焼上野窯

日奈久町に入ってまもなく、街道の左に高田焼上野窯があります。八代焼(高田焼)は、江戸時代に現在の平山新町に窯を築き、焼物を焼いていました。上野庭三は、父洲三と共に、明治25年(1892年)に陶土の産地の日奈久町に窯を移しました。日奈久駅裏手に現在も窯が残っています。
江戸時代に書かれました「名物数望附」には、大関として高田陶器の名を見ることができます。
④ 日奈久温泉神社

応永16年(1409年)、濱田六郎左衛門が父右近の刀傷を治そうと、神様のお告げを受けて温泉を発見した伝説があります。応永26年(1419年)に、市杵島媛命を祭神として、弁天社を建立したのが、日奈久温泉神社の始まりと言われています。
本殿の彫刻は、川尻の後藤金十郎の謹作で、正面に「雲に龍」東側に「桐に鳳凰」西側に「雲に麒麟」後ろに「波頭」が彫られています。本殿の他に、六郎神社やお告げ石を祀った祠があります。また、奉納相撲のための桟敷席が土俵を囲んでいます。
温泉神社の鳥居の横に、悲運の力士「嶋ケ崎宇太郎」の墓があります。嶋ケ崎は、相撲が強すぎて江戸の横綱に挑戦しようとした旅先で毒殺されてしまったのです。日奈久の相撲人形「板角力」はこの力士を偲んで作られたものです。
⑤ 鳩山

日奈久町を出て、下塩屋・馬越を過ぎると、右手の海中に鳩山があります。
山頂には、宮地嶽三神宮と金毘羅宮が勧進されており、前方後円墳の後も発見されています。
⑥ 政府衝背軍上陸地

ここは明治10年(1877年)の西南戦争の折、官軍が上陸した地です。薩軍の熊本城包囲網は固く、黒田中将を参謀とし高島大佐を別動隊とする衝背軍を編成して、3月19日未明日奈久へ上陸しようと試みましたが、薩軍の抵抗にあい二見の洲口の浜に午前7時、黒木中佐が指揮する歩兵12個大隊と警視隊500名が上陸しました。一方、前田大尉指揮の1個中隊・巡査300名も下大野間道から潜行して、本道沿いの部隊とともに北進し、八代の激戦を官軍の勝利へと導きました。
この作戦は、薩軍が北に気を取られているすきに、衝背軍が後方から攻撃し、官軍に勝利をもたらしたもので、記念すべき海岸です。西南戦争のノルマンディとも言えるのではないでしょうか。