⑦ 君ケ淵(君ケ淵眼鏡橋跡)

下大野川と二見川が合流した点で、道の下に深淵を作り、両側の山の間から奇岩大石が川床に迫り「芦北第1の景境」と肥後国誌にも記されています。また、カッパ伝説を初めととする多くの逸話・伝説に富む名所でしたが、昔の面影は失われています。『昔、播磨の国(兵庫県)の「君女」と言う若い女が、遥々流れてこの淵に辿り着きました。長い間歩き続けた体は限界で、疲れた体を岩に横たえ、淵の奥を眺めていましたが、その日を限りに姿が見えなくなりました。何年か経ち、愛しい君女の消息を探し続けていた男が、盲目の琵琶法師となりこの淵に辿り着き、村人からこの淵で消えてしまった君女の消息を聞きました。法師は絶望し最後の一曲を奏で、身を投げたという悲しい伝説に由来しています。』
君ケ淵眼鏡橋は、君ケ淵のすぐ上流に架けられていた大変美しい橋だったそうですが、昭和57年の大水害で流失し、橋の根石しか残っていません。
⑧ 新免眼鏡橋

二見川の最下流に架かる石橋で、現存する六ヶ所の眼鏡橋の中では、両岸より高く反っている比較的偏平なアーチを描いています。
以前、自動車を通すため橋の上面を鉄筋コンクリートで補強してあります。欄干は失われていますが、橋の側面は丁寧な石積みが見られます。
架橋の年代は、嘉永6年(1853年)頃と思われ、石工は不明です。
長さ11,93m、幅3,42m、径間10,14m、拱矢3,56m。
⑨ 赤松第1号眼鏡橋

八代市指定有形文化財(昭和47年11月13日)です。 二見川に架かる六つの眼鏡橋の中で、最も保存状態が良く、橋の両側の欄干には扇面やひょうたんなどの色々な彫刻が施されています。
架橋年代は、嘉永5年(1852年)頃と思われ、石工は不明です。
長さ12,32m、幅3,12m、径間8,15m、拱矢3,46m。
嘉永6年8月21日、篤姫の一行は鹿児島を出立、江戸まで約四百四十里(約1700㎞)、約50日をかけて到達しました。暑い最中、篤姫一行は新しく架けられた石橋を渡って、行ったことでしょう。
⑩ 須田眼鏡橋

二見川の最も上流に架かる石橋で、薩摩街道上にあります。 輪石は幅、厚さのそろった整形石で,壁石は整形石の扇情積みと自然石の乱れ積みで構成されています。
また、親柱があるなど、かつては欄干があったような形跡が見られます。
長さ11,84m、幅3m、拱矢2,78mで、架橋年代は嘉永2年(1849年)頃と思われ、石工は不明です。
⑪ 合戦場の首塚

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵をした「文禄の役」の時、加藤清正や佐敷城城代加藤与左衛門の留守をついて、島津氏の家臣梅北宮内左衛門国兼が、佐敷城や八代麦島城を攻めました。これを「梅北の乱」と言います。まず、佐敷城が落とされ東郷甚右衛門等が麦島城を攻めました。梅北は佐敷城にいましたが、坂井ら加藤家の家臣達に謀殺されてしまいました。
梅北の死を知った東郷甚右衛門と矢崎内蔵助は、急遽麦島城から引き上げることになり、赤松太郎峠を越えてきました。 そこに田浦助兵衛(檜前正成)等が待ち伏せしており、東郷は田浦助兵衛と井上飛騨が、矢崎は大尼田玄蕃が首を取ったと言われています。東郷の首級と骸は赤松に埋められ、戦いがあったここを合戦場と言い、首塚はミカン園の中にあります。 今でもこの迫は「トクジネンガ迫(東郷甚右衛門迫)」と呼ばれています。