⑫ 浜町八幡宮「鳩八幡宮」

 創立等の詳細は不詳ですが、元和九年(1623年)の棟札が記録されて いますので、これ以前の建設が想像されます。祭神は、応神天皇と 神功皇后で、武神として田浦氏が祭ったものです。
 ここは、元禄12年(1699年)に干拓されるまで、海の小島でした。薩摩街道の側にありますので、参勤交代の途中で相良藩主がこの八幡宮で昼食を摂っていたと言う話もあります。
 境内内の石灯篭に延宝5年(1677年)に田浦手永惣庄屋の檜前家が 寄進したものが残っています。
 また、恵比寿様の祠がありますが、これは最初高札場の付近に祭られていたものを、現在の場所に移されています。この恵比寿祠には、坂井屋・伊勢屋・蛭子屋・三島屋・万屋など二十八軒の商家の屋号が掘り込まれており、田浦宿の繁栄が偲ばれます。

⑬ 天子宮

 景行天皇が九州巡幸された時、上陸して休憩された所に宮を建てて、天皇を偲んだのが天子宮と言い、この地域を宮浦と呼ぶようになりました。
 また、船が入って来た田浦湾の左の岬を入御ノ鼻、船が出て行った 岬を発ち岬(御立岬)と呼びます。
 他に、裳掛けの松と呼ばれる松がありましたが、昭和50年代の松喰い虫の被害で枯れてしまいました。この裳掛けの松は、天皇がご休憩の時、脱いだ着物を松の木に架けられたので、こう呼ばれていたと言う事ですが、別の言い伝えでは、天子宮付近まで海岸で、海に迫り出していた松の木に、波に運ばれた藻が掛ったからとも言われてます。現実的には後者論かもしれませんが、悠久の昔に思いを馳せるには、前者がロマンチックですね。

⑭ 野添眼鏡橋

 この眼鏡橋は、幕末のころ東陽村の種山石工によって作られたものです。
  長さ4、2m、幅3,3mの小さな石橋ですが、篤姫や西南戦争で大砲などが渡って行った橋です。

⑮ 滝ノ上石畳

 元和3年(1617年)に発布された「武家諸法度」により、諸国大名は参勤交代をしなければならなくなり、街道の整備が必要になったので薩摩街道が充実されました。
 滝ノ上の道は、急峻で石がごろごろあり、旅人は困難を極めていました。そこで、石畳を敷き通行を楽にしたのです。この石畳の上を、数限りない旅人が歩き、薩摩から江戸へ輿入れした篤姫一行も歩き、明治10年の西南の役では、軍人が大砲などを引き、良い世を作る夢を見ながら歩いたのだろうかなどと、当時を思いながら、石畳を歩いて見ましょう。

⑯ 佐敷(挿木)発祥の地

  芦北に伝わる弘法大師伝説の一つです。物語では「時は平安時代初期の秋の終わりのことでした。佐敷太郎峠を一人のみすぼらしい身なりをした旅の僧が、歩いていました。僧の名前は空海上人、桓武天皇
の庇護を受け全国に仏教を広めて歩いていました。峠を下りながら、七本松付近まで来て、下の佐敷の集落を眺めると、暗く貧しそうな家が立ち並んでいます。旅の僧は仏法を広めることで、心の安らぎが出来、きっと生活も良くなるに違いないと考え、「この地域に仏法広まれば、きっとこの杖に根を生じ大きくなるべし。」と呪文をかけ、持っていた杖を地中に突き立てたのでした。僧の予言どおり、この地域
 に、仏法は広まり、地中に突き立てた杖も、根を張り、葉を茂らせ、大きな楠木に成ったと言うことです。また、この地域も薩摩・相良街道の重要な佐敷宿として繁栄しました。以後、この地を挿木と言い、
字が佐色・佐職などに変化し、佐敷になったと言うことです。

⑰ 薩摩屋

 薩摩屋は、島津氏が参勤交代の時に休泊した本陣(御茶屋)で、現在も、「十一月六日 薩摩宰相休」の関札が残されています。
 実例では、「元禄14年(1701年)に松平修理大夫様、佐敷町の薩摩屋伊兵衛所へ御泊り。」
「宝永2年(1705年)嶋津周防殿、佐敷町薩摩屋伊兵衛殿へ御泊り」などの記録が残っています。

⑱ 相逢橋(佐敷大橋)・高札場跡

 佐敷川に架かる相逢橋は、薩摩や相良街道に通じる重要な橋でした。相逢とは、「人恋しい」と言うロマンチックな名前ですが、それにまつわる伝説があります。
 時は享保15年(1730年)の11月、雪が舞う寒い朝でした。年老いた一人の六部が、薩摩の方から橋にさしかかりました。すると、反対の方から歳の頃十二・三歳の巡礼姿の娘が橋を渡って来ました。
 橋の中程でお互いが顔を見合わせました。奇跡でしょうか、年老いた六部はこの娘が六歳の時、下野国(栃木県)から法華経を納めるため巡礼の旅に出た父親だったのです。父が旅に出て三年後、母も亡くなり娘は父を捜しに苦難の旅をして来たのでした。二人は抱き合いこの奇跡を喜び、神仏に感謝し、故郷へと帰って行きました。その後、町の人々はこの橋を相逢橋と名付けたと言うことです。
 また、橋の袂に御禁制等の11枚建ての高札場があり、手永会所がある所に掲示されていました。

⑲ 佐敷城跡 (花岡城)

 佐敷城は、16世紀後半に薩摩の島津氏や球磨の相良氏に対する備えとして加藤清正が築かせました。
 文禄元年(1592年)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵があり、城代の加藤重次が、加藤清正に随行して留守の時、薩摩の梅北宮内左衛門国兼が攻め込んできました。これを「梅北の乱」と言いますが、佐敷城で梅北宮内左衛門を討ち取っています。江戸時代の元和元年(1615年)の一国一城令により破却されました。
 城跡の発掘調査が平成6年から始まり、平成8年には追手門跡から「天下泰平国土安穏」の鬼瓦が出土し、翌年には、本丸通路跡から「桐紋入鬼瓦」も出土しています。

⑳ 實照寺

  日蓮宗 当寺は、佐敷城代加藤大和守重次が慶長17年(1612年)加藤清正の菩提の為建立されました。蓮光院を開基としますが、その後退転しました。本妙寺五世日悠上人が再建して、實照寺としました。平等寺杉本院の本尊十一面観音像と仁王像が遷座されています。また、書家の土肥樵石の墓もあります。