㉑ 峠の地蔵祠(湯治坂の板碑)

板碑が祠の中に祀ってあります。文明12年(1480年)の銘があり、 長い錫杖を持ち、蓮台の上に立った地蔵尊が線刻されています。芦北地方で、最古の板碑として町文化財に指定されています。元はゴミ処理場裏の街道筋に地蔵尊と向い合って立っていたのをここに移設したものです。
昔の薩摩街道はゴミ処理場裏から尾根筋を通って今のオレンジ鉄道付近に下りてきてたようです。湯治坂は「上り七町弐十間、下り七丁程」と(佐敷郷通筋御手鑑帳)に記され、高山彦九郎は「むねつき坂を上り、一ノ坂を下る」と(筑紫日記)に記しています。峠には御駕籠据所・茶屋があったようです。
㉒ 湯浦手永会所跡

現在の、保健センター「きずなの里」が建っている辺りに湯浦手永内の事務をする役所の「湯浦手永会所」がありました。「きずなの里」の横には「星野富弘美術館」が建っています。
㉓ 山川観音堂

芦北33カ所霊場の内、第24番札所にあたり、御詠歌にも「年月を仇に暮らして山川の返らぬ波を見るもはかなし」とあります。毎年8月10日に「風除け祭り」と称したお祭りがあります。
㉔ 山川石畳

津奈木太郎峠への登り口になっています。湯町から18町です。薩摩街道には難所の三太郎がありますが、これから登る津奈木太郎は難所中の難所です。
登ってすぐ、薩摩街道の「山川石畳」があります。今はほとんど雨で流され少しだけ幅1,5m長さ7m程だけですが残っています。峠までは、山の中を登ります。急な山坂、足場の悪い山路です。山の中ですから、当時も今も峠まで歩くのは大変だったでしょう。
㉕ 津奈木太郎峠

薩摩街道の津奈木太郎付近は平坦な道が70~80m続き、杉林のある広場がありました。参勤交代の大名や幕府巡検使の一行が休む「御駕据所」があり、旅人が休憩する峠の茶屋があったそうです。下には津奈木の町も見えます。当時は、開けてもっと景色が良かったと思います。茶屋で喉を潤し、目の保養をして峠を下ります。登りも大変でしたが、下りも同じく大変です。狭い急な坂や岩石の多い谷間の山路を歩きます。
㉖ 水飲場、地蔵尊

薩摩街道は谷間に添って下ります。木々の中に水飲み場があり、その横に地蔵祠があります。清水が湧く水源がありましたが、最近では水が枯渇したのか、水は湧きません。
祠には地蔵尊が4体あり、1体には海上で九死に一生を得た御礼に、水源に地蔵尊を建てたと、文化九年壬申年四月祥日、斎藤宅右衛門奉造立と刻まれています。
㉗ 千代塚

野中村の孝女千代を称える墓碑があります。幼くして父母を亡くした千代は、祖父母に育てられ、幼い時から祖父母に孝養をつくしました。貞享2年(1685年)藩主から褒賞を受けたことにより、藩の命令で津奈木惣庄屋の徳富太多七が天明6年(1786年)「釈尼妙専信女 孝女千代の墓」を建てました。その後も、碑が加えられ今は7基建っています。
この付近の集落は「七本松」と言われ、徳富蘇峰は「碑畔に恐らくは加藤氏時代より歴史を語る七株の老松があった。今尚六株を存している。」と(鎮西遊記)に記しています。
㉘ 馬借

千代塚から600mほど下った所の右手に「馬借」と呼ばれる家(坂本英氏宅)があり、ここは地元の史料(六車家文書)に「松ノ木原駅所」と記された、津奈木の人足継場跡と思われます。この駅所のことを(薩摩往還記事)に「彼の難処の下り坂を下り終れば津奈木の継場なり、此処村里にてもなく、人家四・五軒見ゆ、こ
こにて人足来る事又大に隙どりぬに」「津奈木駅、荷物、駕などを見て、貝を吹いて人足をあつむるなり、珍しき事、誠に山駅のありさまなり」と記されています。
㉙ 重盤岩眼鏡橋

この橋は、嘉永2年(1849年)に種山石工の岩永三平が架けたと伝えられています。三平は、薩摩藩で甲突川の西田橋など多くの名橋を手掛けました。しかし、薩摩藩は橋が完成すると秘密保持のために、石工を殺害すると言う噂を聞き、藩から逃げ出しました。途中追手に襲われ、瀕死の重傷をおいましたが、津奈木の山中まで逃げ、地元の人々に救われたそうです。
三平はその恩に報いるため、長さ18m、幅4.5mで欄干のある優れた橋を完成させました。この橋は、熊本県文化財指定を受けています。
㉚ 歌坂

「肥後国誌」によりますと、天正15年5月、豊臣秀吉が大軍を率いて島津征伐に遠征した時、相良氏の家臣深水三河守宗方が秀吉にご機嫌伺いに、「草も木もなびき従う五月雨に 君がめぐみは高麗百済まで」と「若竹は げに直き世のはじめかな」と2首の歌を献上しました。
秀吉はこの歌を大変気に入り、深水を褒めたと言うことで、これからこの坂を歌坂と言うようになったと言うことです。